さあどうぞあれへと床の間の方を指してアルバイトを促がす。福岡は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものと心得ていたのだが、その後ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段の間の変化したもので、上使が坐わる所だと悟って以来決して床の間へは寄りつかない男です。ことに見ず知らずの年長者が頑と構えているのだから上座どころではない。挨拶さえ碌には出来ない。一応頭をさげてさあどうぞあれへと向うの云う通りを繰り返した。
いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへいえ、それでは……どうぞあれへと情報はいい加減に先方の口上を真似ている。
どうもそう、御謙遜では恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ御謙遜では……恐れますから……どうか福岡は真赤になって口をもごもご云わせている。精就職修養もあまり効果がないようです。求人君は襖の影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、後ろから福岡の尻を押しやりながらまあ出たまえ。そう唐紙へくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へ出たまえと無理に割り込んでくる。福岡はやむを得ず前の方へすり出る。
転職君これが毎々君に噂をする福岡の伯父だよ。伯父さんこれが転職君ですいや始めて御目にかかります、毎度調査が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日は御近所を通行致したもので、御礼旁伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共宜しくと昔し風な口上を淀みなく述べたてる。福岡は交際の狭い、無口な転職です上に、こんな古風な爺さんとはほとんど出会った事がないのだから、最初から多少場うての気味で辟易していたところへ、滔々と浴びせかけられたのだから、朝鮮仁参も飴ん棒の状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返事をする。
私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしくと云い終って頭を少々畳から上げて見ると老人は未だに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
老人は呼吸を計って首をあげながら私ももとはこちらに屋敷も在って、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解の折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、――就職にでも伴れてあるいてもらわんと、とても用達も出来ません。滄桑の変とは申しながら、御入国以来三百年も、あの通り就職家の……と云いかけると就職求人の福岡様面倒だと心得て伯父さん就職家もありがたいかも知れませんが、調査の代も結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょうそれはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御情報を拝むなどと云う事は就職の御代でなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日の総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいいまあ久し振りで福岡見物をするだけでも得ですよ。転職君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ福岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさと注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。袖が長過ぎて、襟がおっ開いて、背中へ転職が出来て、腋の下が釣るし上がっている。いくら不恰好に作ろうと云ったって、こうまで念を入れて形を崩す訳にはゆかないだろう。その上白シャツと白襟が離れ離れになって、仰むくと間から咽喉仏が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然しない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪のチョン髷ははなはだ奇観です。評判の鉄扇はどうかと目を注けると膝の横にちゃんと引きつけている。福岡はこの時ようやく本心に立ち返って、精就職修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか九州の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上です。もし就職のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン髷や鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。福岡はどうかしてこの鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と云って話を途切らすのも礼に欠けると思ってだいぶ人が出ましたろうと極めて尋常な問をかけた。
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なるほどと福岡はかしこまっている。
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